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今年のMan of the Yearはプーチン:米誌タイム

米誌タイムが恒例の Man of the Year に、今年(2007年)はプーチンを選んだ。地球温暖化対策の必要性を訴えてノーベル平和賞を受賞したアル・ゴア、世界中を熱狂させたハリー・ポッター・シリーズを17年かけて完成したローリングズなど、大きな話題を振りまいた人物には事欠かない年だったが、それらを抑えてプーチンを選んだ理由を、タイムは次のように説明している。

これはコンテストではなく、また人気ランキングでもない、その年の世界に最もおおきなインパクトを与え、よきにつけ悪しきにつけ、今後の世界の方向性に影響を与えそうな人物が選ばれる。ヴラヂーミル・プーチンは、ロシアの指導者として、ソ連解体後弱体化し歴史の背後に退いていた国を復活させ、いまやスーパーパワーとして、21世紀の世界に巨大な影を投げかけるような国にロシアを鍛えなおした。その意味で、今年の Man of the Year に相応しいのだと。

タイムがこのように判断した背景の一つに、先日プーチンが自分の後継者としてメドヴェーヂェフを指名したことがあげられるかもしれない。プーチンは先般の議会選挙で圧勝し、3分の2以上の多数派を形成したことをバネにして、憲法を改正し、終身大統領につこうとするのではないかとの憶測が流れていた。それがあっさり後継者の指名劇を演出することで、自分はスターリンのような独裁者にはならないと、世界中にアピールしたのであった。そうした姿勢は、世界の指導者たちをある面で安心させた。タイムの選考はそうした雰囲気を反映しているようにも思えるのである。

タイムは選考結果の発表に先立って、プーチン自身にインタヴューを行い、その人物像を浮かび上がらせようとしている。深い謎に包まれたこの人物の全貌をつかむのは容易ではないだろうが、インタヴューに基づいて構成されたプーチン像はそれなりに面白い読み物になっていたので、ここにその要点を紹介したい。A Tsar is Born By Adi Ignatius TIME

ヴラヂーミル・プーチンは1952年、ペテルブルグの労働者街に生まれた。父親は工員、母親は無学な女でパートタイマーをしていた。住んでいた家は5階建てのアパートで、その不潔なことは、ネズミどもを蹴散らしながら玄関の出入りをしなければならないほどだった。

少年期の自分をプーチンはフーリガンだったと振り返っている。彼は年の割には小さく、いつもいじめに合っていた。そこで護身術として柔道を始めた。プーチンは今でも166cmくらいしかなく、ロシア人としても小柄なほうである。柔道は今でも続けている。

苦学してレニングラード大学に学んだプーチンにチャンスがやってきた。KGBにスカウトされたのである。KGBはプーチンを一人前の男に鍛えてくれた。

彼は反スパイの工作部門に配置され、ドレスデンで蝶報活動に当たった。だがやがてKGBにとっての冬の時代がやってきた。ベルリンの壁が崩壊すると、民衆の襲撃を予想したプーチンは、KGBの事務所にあった極秘書類をことごとく隠滅した。果たして怒り狂った民衆はドレスデンのKGB本部を火に包んだのである。

ロシアに舞い戻ったプーチンはKGBをやめ、当時民主派と目されていたペテルブルグ市長ソブチャクのスタッフになった。だがソブチャクもやがて失脚し、プーチンはまたも職を失った。

だがプーチンの運は尽きなかった。モスクワへ職探しに出たプーチンは、1996年エリツィンと運命的な出会いをする。かれはエリツィン政府の要職に抜擢され、2年後の1998年にはKGBの衣装直しとして創設されたFSBの長官に任命された。

1999年、プーチンが何故エリツィンによって後継者に指名されたか、その真相についてはいまだに明らかでない。プーチン自身も口をつぐんでいる。最もうがった見方は、汚職腐敗にまみれていたエリツィンが、自分とその家族の安全を願って、プーチンと取引したのではないかというものだ。そのことを裏付けるように、プーチンは大統領就任後、エリツィンとその家族が訴追を受けることを妨げてきたのだった。

大統領としての8年間、プーチンがどのようにロシアの舵取りをしてきたかは、大方明らかな通りである。彼の第一の目標は、ゴルバチョフ、エリツィン時代を通じてがたがたになってしまったロシアの国家としての威信を取り戻し、国民に希望を持たせることだった。そのためにはあらゆることが後回しにされた。プーチンは「自由より安定」をスローガンに、ロシア経済の建て直しを第一に図った。その結果、ロシア経済は上向き、民衆の生活は楽になった。この4年間に限っても、国民の懐具合は倍もよくなったのである。

一方プーチンの負の部分については、むしろ彼の成功よりも世界中の注目を浴びることが多かったといえる。プーチンは安定を優先して、国内の混乱分子をことごとく弾圧した。いまのロシアは、ジャーナリストにとって世界一住みにくいといわれている。政党もプーチンのプログラムにしたがって、すべてが翼賛化している。経済界でもプーチンの反対者は生き残れない。

このことをとらえて、西側のジャーナリストはプーチンの独裁者的体質を批判してきた。だがプーチンはそんなことには意を介さない。

ロシアでもこんなジョークがはやっているということだ。夢の中で出会ったスターリンに対して、プーチンは国家運営の秘訣を尋ねた。するとスターリンは、「民主派どもを皆殺しにし、クレムリンをブルーに塗ることさ」と答えた。「何故ブルーなんだい」と問いただすと、スターリンはいった、「お前は俺以上の独裁者だからな」

ロシアの民衆がこの潜在的な専制君主に対して不安を抱かないのは、プーチンが社会を安定化させ、彼らの生活を楽にしてくれたからだ。ロシアは数百年の歴史を通じて真の安定を楽しんだことがなかった。民衆は常に圧制の犠牲になり、生活はいつもひどかった。それをプーチンは世界のほかの国と肩を並べられる水準まで高めてくれたのだ。プーチンの支持率は、いまや70パーセントという桁外れのものになっている。民衆はプーチンを、あの民族の英雄ピョートル大帝に比較し、その偉大さをたたえている。

こんなプーチンだから、ロシアの民衆も、西側のジャーナリストも、プーチンが皇帝になるのを目指しても不思議ではないと感じてきた。それが意外にも、プーチンは側近にあっさり道を譲ったように見えるのだ。いまのところ、プーチンの真意は十分に分析されていない。プーチン自身は民主的な手続きを強調しているが、それをまともに受け止めるものがいないのは、面白いことだ。

後継に指名されたメドヴェーヂェフは未知数の政治家だが、プーチンとは深い信頼で結ばれているらしい。プーチンはかつて自分がエリツィンとの間で行ったことを、メドヴェーヂェフとの間でも行おうとしているのかもしれない。

最近ロシアでは、次のようなジョークがはやっているそうだ。プーチンはメドヴェーヂェフをつれてレストランに入ると、ステーキを一つ注文した。ウェイターが「ヴェジタブルはいかがしましょうか」と訪ねると、プーチンはこう答えた。「ああ、ヴェジタブルにもステーキをつけてくれ。」

ステーキがメドヴェーヂェフのためなのは明らかである。肉は熊の好物だからだ。(メドヴェーヂェフは熊男の意)

プーチンが西側のジャーナリストの間で人気がない理由は、政治のやり方は無論、その立ち居振る舞いにもある。プーチンは無駄な笑いを笑わない。またジョークを飛ばして人を笑わせることもない。どんな場面にあってもビジネスライクな表情に徹している。

だがプーチンにとって、人気などどうでもよいことだ。彼の頭を占めているのは、ロシアを一流国家にすることと、その目的のために権力を行使することだ。プーチンのその目標はまだ完全に達成されたとは到底いえない。遣り残したことは沢山ある。くつろいでいる場合ではないのだ。

プーチンは自分の据えた方向性をメドヴェーヂェフに託したいのだろう。だが大統領職を譲ってからでも、プーチンはまだ首相として生き残る。完全に舞台を下りるつもりはない。もしメドヴェーヂェフに不都合な動きが生じたら、実力で阻止するつもりでいるのかもしれない。

プーチンは「ナーシ」という独特の青年団体を自分の肝いりで作り上げた。その規模は今や数十万人にも達するといわれ、全員がプーチンへの熱い忠誠心で結ばれている。

大統領の職を退く来年の三月以降も、プーチンは当面ロシア最高の権力者として君臨し続けるだろう。





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