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引き裂かれた歳月:シベリア抑留者の重い記憶



シベリア抑留者たちが被った辛い体験については、これまであまり明らかにされなかった。ほかならぬ当事者たち(筆者の父親もそのひとりだった)が語ることを望まなかったし、また積極的に聞き出そうとするものもなかったからだ。

ところが戦後65年たった今になって、抑留の体験者たちが重い口を開き始めた。その声をNHKが集めて、証言集というかたちでまとめた。彼らの証言のほかに、最近ロシア政府が公表したシベリア抑留に関する記録とあいまち、ここにシベリア抑留の実態が、生々しい形で明らかになってきた。

シベリアに抑留された人々は、いまや80歳代後半から90歳を過ぎた年齢だ。いま語らなければもう二度と語る機会はない。また聞く側の人も、いま聞いておかなければ二度と聞く機会がないだろう。その意味でこの証言集は、最後の機会を生かした貴重な資料となった。

シベリアに抑留された人は57万人に上るとされ、そのうちの一割近い55000人の人が死んだ。凍傷や栄養不足、過酷な労働などが原因だったと思われる。

ソ連の一方的な参戦によって捕虜となった人々は、シベリアを中心に展開する1000箇所の強制収容所に分散収容された。収容所はロシア西部やウクライナにまで展開していたから、厳密にはシベリア抑留というより、ソ連各地への強制連行といったほうがよい。最初の冬を生き残れずに死んだ人は2万人に上った。

ソ連側の意図は、対独戦争によって被った労働力不足を、捕虜の労働で埋め合わせることにあった。日本人のみならず、ドイツ人を始め複数の交戦国の捕虜がやはり強制収容所に連行されている。

ソ連による日本人捕虜の取り扱い方針は、1946年6月の対日理事会を境にして、異なっている。この理事会は、対日参戦国政府による日本人捕虜の取り扱い方針を検証するものであったが、ほとんどの国が捕虜の解放を進めている中で、ソ連のみはまだひとりも解放していなかった。

ソ連は当初、日本軍の組織をそのまま活用して、間接統治を行った。捕虜たちは従来の階級組織の延長の中で、鉄の規律に従って、割り当てられた労働をこなしていった。ソ連側は上官を優遇し、彼らには食料や日用品などが優先割り当てられるような配慮を行った。その結果日本人捕虜社会の中に、一種の階級対立のようなものが持ち込まれた。

対日理事会で捕虜の取り扱い方針を厳しく批判されたソ連は、以後段階的に捕虜を帰すことに方針を転換するが、それに条件をつけた。ソ連に協力的なものから優先的に帰国させようとするものだった。

ソ連は日本人捕虜を徹底的に思想教育し、共産主義への共感とスターリンへの尊敬を植えつけようとした。そのために捕虜社会の中に、思想教育のための協力組織を作らせ、これを通じて捕虜の教育、ならびにいわゆる反動分子の吊るし上げを行わせた。日本人はこうした政策の中で、互いを監視しあうような生き方を強いられた。

NHKの番組は、日本人が自ら作ったというスターリンへの贈呈品を映し出していたが、それはペナントに金糸の文字を縫いこんだもので、スターリンへの感謝の言葉が綴られていた。

こうして1947年の3月に最初の捕虜がナホトカから送り出され、以後1956年までかかって捕虜のすべてが帰国した。最も長く抑留されたものは、実に11年ぶりに開放されたわけである。

捕虜たちの多くは日本に戻った後も、過酷な生活を強いられた。ソ連帰りだというので赤呼ばわりされたり、警察に監視されたものが多かったのである。

こうしてみると、これまで彼らの口が重かった理由が納得される。捕虜生活の重い記憶と、帰国後の故なき差別とが、彼らの口を自然と重くさせていたのだ。





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作者:壺齋散人(引地博信) All Rights Reserved (C) 2011
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