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ソ連の強制収容所

先稿で第二次世界大戦後ソ連に抑留された日本人捕虜の記録について語ったが、ソ連が抑留して強制労働に従事させた人々は日本人だけではなかった。ドイツ人を中心に、リトアニア、ラトヴィア、エストニアの反ソ的な人々を含め、最盛期の1947年には900万人に上る人々が、強制労働所にいたとされている。

ソ連が戦争捕虜を強制労働に使うことについては、ヤルタ会談で英米側がそれを容認したという事情がある。実際英米両国は、自分が占領した地域から、大勢の人々をソ連側に引渡し、強制労働に従事させることに協力した形跡さえあると、主張する学者もある。

ソ連は強制労働所に入れた人々を、道路や運河、鉄道の整備といった分野に駆り立てた。当時のソ連は戦争による人的資源の消耗などにより、極端な労働力不足に直面していたから、戦争捕虜をはじめとした囚人たちは貴重な労働力資源だったのだ。

強制労働所の実態については、いまだに詳細なことは明らかになっていない。生き残った人の証言、収容所の管理に当たっていた一部の人々のメモワール、そしてソルジェニーツィンによる「収容所群島」などが公にされているが、殆ど読まれていない。ソルジェニーツィンの労作は、西洋諸国ではまじめな研究とは受け取られておらず、黙殺に近い扱いを受けている。

ロシア語で「グーラク」と呼ばれた強制収容所は、もともと国内の反体制派を封じ込めるために作られたものだ。スターリンは政権を掌握すると反動分子の粛清と称して大規模な政治的弾圧を行うが、その結果、1932年には320000人のロシア人が強制収容所に送られ、それが1935年には100万人、1940年には200万人にも膨らんだ。

1939年以降は、ロシア人の反体制派と並んで、戦争捕虜の数も増えた。フィンランドとの冬の戦争の結果まずフィンランド人の捕虜が加わり、その後各地の戦闘で、ポーランド人、ドイツ人、イタリア人、ルーマニア人などが強制収容所に送られてきた。

当然のことながらドイツ人の捕虜が最も多く、戦争終結までに、340万人のドイツ人が強制収容所に入れられた。彼らは戦争が終結しても、すぐに祖国に送還されることはなく、ヤルタ協定に基づき、引き続き強制労働に駆り立てられていたことは、先に述べたとおりだ。1941年から1952年までの約10年間で、100万人のドイツ人捕虜が強制収用所で死んだとされる。ドイツ人捕虜が最終的に全員解放されたのは、1955年のことである。

ソ連はまた、戦時中ソ連を脱出して西欧諸国に逃れていた自国人を連れ戻して、強制収容所に送り込んでもいる。その数は420万人にのぼるといわれる。彼らは再教育と称して、過酷な強制労働に駆り立てられた。

スターリン体制下の強制収容所の実態の詳細については、戦争捕虜の取り扱いを含めて、今後の研究にゆだねられた部分が大きい。

(参考)The Gulag: Communism's Penal Colonies Revisited By Dan Michaels





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