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顔のない男:マーシャ・ゲッセンによるプーチンの伝記


マーシャ・ゲッセン(Masha Gessen)女史によるプーチンの伝記「顔のない男」の一部がNewsweekの最新号で紹介されている。プーチンの素顔が良く出ていて、興味深く読んだ。

ゲッセン自身はプーチンに直接インタビューできる立場にはない。彼女はプーチンの登場にKGBとソ連の復活を読み取ったことでプーチンの怒りを買い、ブラックリストに載っているからだ。そのかわり、プーチンを良く知る人々から情報を集め、それらをつなぎ合わせてプーチンの伝記を書いたというわけだ。

プーチンの両親は比較的裕福だった。住んでいたレニングラードのアパートはわずか20平米の広さしかなかったが、当時のロシア人にとっては標準以上だった。そのうえ郊外に小さいながらも別荘を持ち、テレビや電話もあった。父親は工場の技師として働いていたが、そのかたわら、秘密警察の工作員としても活動し、そのことでかなりの副収入があったはずだという。プーチン一家が比較的裕福に暮らせたのは、この副業のおかげであった可能性が高い。

しかしプーチン自身は、戦争後の荒廃したレニングラード(1941年から1944年まで過酷な対独線の舞台となった)で、ハングリーな少年時代を過ごしたというイメージを振りまいている。暖房が良く利かない小さな家で(たしかに20平米しかないし、1フラット4世帯の共有スペースにストーブが一つあるだけだったということになっている)、家族が支え合って生きていた、そんなイメージである。

プーチンはまた、自分は正義感の強い子どもで、堕落した人間を見ると許せなかったといっているが、確かに子供時代の悪童仲間の証言によれば、ろくでもない連中をしょっちゅう懲らしめてもいたようだ。プーチンは誰にも負けないようにと、格闘技の習得に励んだ。子供時代のプーチンが学んだのはサンボという格闘技で、柔道と、空手と、レスリングをミックスしたようなものだったらしい。

プーチンがKGBを目指すようになったのは。10歳頃のことだという。普通の少年なら宇宙飛行士を目指していた時代に、KGBのスパイになりたいと思ったのは、父親の影響かもしれない。

レニングラードの大学を卒業すると、プーチンは念願どおりKGBに入った。その頃のKGBの主な仕事と云えば、国内にいる反体制活動家を監視し、必要があれば弾圧することだった。だがプーチンには国外での仕事が割り当てられた。彼は1985年に、そろそろ激動期に入りつつある東ドイツでスパイ活動をするように命じられたのだった。

プーチンの仕事は西ドイツ国内の情勢、特にアメリカの軍事施設の状況を調べ上げることだった。しかし、情報は殆ど取れなかった。プーチンはあまり有能なスパイではなかったようなのだ。そのうち、東ドイツを巡る情勢は急展開し、ベルリンの壁が倒され、東ドイツは西ドイツに吸収されることになって、プーチンは失業した。

レニングラードに戻ったプーチンは、KGBの人脈を活用して出世の階段を上り、遂にはロシアの最高指導者に上り詰めた。そのプーチンが常に行動指針としているのは、ロシアをかつてのソ連のような、強大で尊敬されるような国にすることだ。プーチンは自分の身の周りをスパイ仲間で固め、ロシアを再びスパイ国家にしたい、そう考えているのだと、ゲッセンはいうのだ。(写真はゲッセン女史)





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作者:壺齋散人(引地博信) All Rights Reserved (C) 2011
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